Mussel Docking World

発汗、発光の末、発酵!をモットーに、音楽的な活動をする二人組、Mussel Docking (マッスル・ドッキング)のブログです。

性別や年齢に捕らわれすぎることは、自由を損ない面白さを減らすこと

※以下の文章は2015年の年初に私が別の場所で公開したものです。ここに転載します。


所ジョージ氏インタヴュー「わくわく感 続けたい」(「日経MJ」2015年1月1日)

元日の新聞には、年男、年女へのインタヴュー記事がしばしば掲載されます。
今年*1にかける意気込みや抱負を語ってもらう、という形式が王道だと思いますが、日経MJにも元日の紙面には未年(ひつじどし)の年男、所ジョージ氏、年女、原田知世氏のインタヴュー記事が掲載されていました。
私は、所ジョージ氏に対して、軽妙な語り口と趣味にお金をつぎ込み人生を存分に楽しんでいるという印象を持っていますが、当該記事においても、「重」要なことを「軽」く語っているのが実に印象的でした。
インタヴュー記事の冒頭から、年男であり還暦を迎えるということに対して、

自分の年がいくつだからって生きている人はいないと思う。俺が男だからとか、何歳だからと言い出すのはつまらない人生です。性別と年齢は誰もが持っているものだから・・・

と語っています(上記は「日経MJ」2015年1月1日からの引用です)。
インタヴュー全体を通じて、好きなことなどをあきらめてしまわず、辞めてしまわずに続けることができる人が、才能のある人だ、ということなど、(他の誰かに言われたら心に響かないかもしれないようなことであっても)所ジョージ氏に言われるとズシンと腹にくる感じのことが語られています。
が、上記引用箇所は、この記事を読む前か後のいずれか忘れてしまいましたが、時間差を置かずに読んだ、
津田大介の『メディアの現場』」2014年12月26日(vol.149)
における、「なぜ政治の場でセクハラ発言が相次ぐのか?──度重なる不祥事に見る政治家の意識、社会の意識」という記事で深澤真紀氏が津田大介氏らと語り合っている昨年(2014年)東京都議会の場で問題となったセクハラ発言にまつわる話題の中で語った次の言葉と(私の胸中あるいは腹奥で)共鳴しました。

男女差別が理解されにくい原因のひとつとして、男性と女性には歴然な性差があると考える人が多いということもあると思います。人種差別や国籍差別であれば、「みんな同じ人間なんだから差別はダメだ」という理屈である程度はわかってもらえる。でも、男女の場合は「性差があるから、同じ土台で考えられるわけがない」と思っている人が非常に多いんですね。たしかに子どもを産むことは女性にしかできませんが、それは自分で決める選択肢のひとつです。だから、基本的には男女を同じ土台で考えていいのですが、なかなか理解されないのが難しいところです。

(上記は「津田大介の『メディアの現場』」2014年12月26日(vol.149)における「なぜ政治の場でセクハラ発言が相次ぐのか?──度重なる不祥事に見る政治家の意識、社会の意識」からの引用です)

ジョージ氏と深澤氏の言葉から、自分や他人の性別や年齢、あるいは肩書や経歴などで、その人のことを規定したり偏見を持つことは、その対象が他人であれば余計なお世話であり、対象が自分自身であれば、自分の精神や身体を自由に動かすことを妨げることにつながるんだということを、年始、私は思った次第です。
というわけで、他者に安易にレッテルを貼ることのないよう気をつけつつ、自分は自分に飽きないように、(数年前の既にossanであった自分ではなく)中学2年生の頃の自分に退屈なossanだと思われることのないように注意して、帆を掲げ、歩を進めていきたいと思います。

*1:文章中の「今年」は2015年を表します。