Mussel Docking World

発汗、発光の末、発酵!をモットーに、音楽的な活動をする二人組、Mussel Docking (マッスル・ドッキング)のブログです。

バス停留所

母子寮前

母子寮前

最近『母子寮前』という小説を読みました。つい最近まで住んでいた場所で時折利用していたバスの路線に「母子寮前」という停留所があり、何か関係があるのか気になったのがきっかけです。読んでみて、やっぱりあの停留所のことだとわかりました。自分が知っている土地が小説に出てくるのはちょっと特別な気分です。この小説には実在の地名や施設名がたくさん出てきますが、自分のよく知る場所と馴染みの薄い場所では、読むときの想像力の働き方がかなり違う気がします。
埼玉の吉川市などは行ったことがないので、情景描写から一応風景を想像してみるのですが、その風景はなんとなく抽象画のようで、現実感をあまり備えていません。描写を簡潔に淡々と語りを進めていくタイプの小説なのでそう感じたのか、あるいは僕の想像力が乏しいだけか。
しかし、「母子寮前」停留所という固有名が出ると、何の描写がなくとも、一気に風景が拓けてきます。交通量の割には狭く圧迫感のある道。コンビニと塾。小規模な新旧の低層マンションが不規則に立ち並ぶ町並み。バスの通りから横道に入りしばらく行くと高台の土地になり、緑の多い静かな住宅地が始まります。そこに立つ救世軍ブース病院の周囲はひときわ緑が豊かで、自転車で走る時には楽しみな場所でした。小説の最後の舞台です。
文学は普遍性を志向すると僕は考えていました。読者がどの時代、どの土地に住んでいても関係なく、等しく心に刺さっていくようなものが文学である。だから読者としても自分の知っている土地が小説の中に出てくるというそれだけの理由で喜ぶのはくだらない、とも思ってました。しかし、素直な気持ちになると、自分の知っている土地、しかも新宿や渋谷ではなくマイナーな地元が小説に出てくると嬉しいし、読んでいていろいろ想像できて楽しいのです。
土地の風景というのは小説の中の小さな一要素でしかないでしょう。なんといっても重要なのは、人間そのものです。人がどんなことを考え、感じるのかを読み取るのが、小説を読む楽しみの中心にあると思います。しかし考えてみると、ある土地の名前から風景をありありと思い浮かべるのと、ある人物の行動や内面の描写からその人の感情の機微を読み取るというのは、それほどかけ離れた作業でもないような気もします。気がするだけなのでここを掘り下げる勇気はなかなか出ないのですが、ちょっと例だけ挙げてみます。
『母子寮前』では、主人公の母への愛と父への憎しみが対照的に描かれますが、母への愛情は表現としてはかなり控えめであるのに対して、父への憎悪の感情はかなり直接的な言葉で激しめに表現されます。にもかかわらず、僕には、母への愛情はとてもよく理解できるのに、父への憎しみはそれほど心に迫ってきません。その理由はきっと、母親への愛情を僕も主人公と同じように持っているからでしょうし、主人公の父親のようなひどい人物が身近にはいないので、憎しみの感情を持続的に持ち続けた経験が僕にはないからでしょう。
 見知った風景をよく思い出せることと、自分も経験した感情をよく想像できることは、よく似た現象なのではないでしょうか。人は自分の経験を動員して物語を読み、想像するのであって、それは視覚的な光景であっても内面的感情であっても同じことかもしれない。と思った次第です。
ちなみにマッスル・ドッキングにも「市川塩浜なんもない」と高らかに叫ぶ歌*1があります。

*1:「シー・ゴーズ・オン、シー・ゴーズ・オン」